こんにちは、おかちゃんせんせいです!
昨日の記事に続く話で、子育てにおける競争について書いてみたいと思います。
私自身、競争すること自体悪いことだと考えていないことは、暗殺教室特集のテストの回でも書きました。
【工夫の極意】暗殺教室から学ぶシリーズ7−1「テストとは?」ただ、できる・できないという基準での競争だけで優劣を決めてしまうのは、個人的には好きではありません。
例えば、昨日の話題のある幼稚園の話で言うと、
保育士の言う通りに従う子・できる子は優遇して、できない子は冷遇する・見向きもしなくてほったらかすそうです。
ここでポイントなのは、
小俣は基本ほったらかし保育ですが、このほったらかしと上述のほったらかしは使われている言葉は同じでも、中身は全然異なるということ。
上述のほったらかしは、見向きもしない——つまり、関心すら寄せておらず、相手の子のことを見ようともしないという意味合い。
それに対して、小俣でいうところのほったらかしは、基本子どもたちの自主性を大事にするために積極的介入はせず、やりたいようにやらせつつ、遠くからその様子を見守るという意味合い。
小俣の先生方と話をしていていつも驚くのが、担当ではないクラスの子のこともよく知っているということ。
今何が好きで、何にハマっているとか、何に関心があるのかとか。
すごく良く観てくれている感はいつも感じています。
言葉だけほったらかし・自由という意味を受け取ってしまうと、なぜほったらかしにしているのかという核心部分が伝わらなく誤解を受けてしまうこともあるという話も聴き、一部の解釈で全体を判断するのは危険だなって改めて実感しました。
先日小俣幼児生活団はテレビで特集されましたが、その中のシーンで以下のようなシーンがあります。
・昼ごはんでいちごだけ選んで食べている園児
・1歳児同士の喧嘩に対して、静観している保育士さん
これらのシーンだけで解釈してしまうと、
なぜいちごだけ選んで食べることがOKになっているのか?
なぜ子どもたちの喧嘩に対して、保育士さんが静観しているのか?
というそもそもの部分が考えられず、誤解してしまう可能性が高まってしまいます。
解釈は人それぞれ自由ではありますが、
やはり伝える側としては誤解されてしまうような表現やシーンはできるだけ考慮が必要なのではないかと、改めて考えさせられました。
私自身もなるべく誤解を招きやすい言葉を使うのは避けていますが、どうやったら相手に伝わりすくなるのかをもっと考えて工夫していきたいと思います!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!