こんにちは、おかちゃんせんせいです!
先ほど名古屋から名鉄・新幹線・遠鉄と乗り継いで、妻の実家に到着。
本当なら新幹線で、名古屋から浜松まで一気に行きたいところですが、子どもたちが名鉄好き・パノラマスーパー好きで、どうしても譲りそうもないため、毎回このルートを使ってますw
さて、2025年がスタートして3日になりましたが、みなさんはどんな年明けを迎えられましたか?
自分はブログにも書いた通り、元旦に坂の上の雲をみて今年のテーマが決まった次の日、今までの疲れがなぜか昨日のタイミングで一気にきて休養。
そして、今日は昨日の疲れは一気になくなり、ホッとした中での移動でした。
今回の記事はそんな移動中感じたことで、
特定の誰かや何かをワルモノにするかぎりでは、根本的な問題解決には繋がらないよ
という話について書きたいと思います。
さっそくですが、移動中とある方の悩み話を聴いた中で、やっぱり毎回に疑問に感じるというか、違和感がすることがあります。
それが、
発達障害
というキーワードです。
以前にも記事にしたことがありますが、
発達障害だから~
という枕詞で家族の悩み話がスタートすることに対して、ものすご~く違和感がします。
問題があると勝手に障害者扱いしておきながら、それを支援してあげてる感をヒシヒシ感じるのは今までもありましたが、今回感じたのはまた別のこと。
今回聴いた話は簡潔にまとめると――
小学生になった男の子(Aくん)が発達障害認定を受けてから、
旦那さんが目に見えてAくんだけ冷遇するようになった。
→「一緒に行動したくない」と口にするくらい。
ということ。
みなさんなら、こんな話をきいたらどんなことを感じますか?
ここで、話を聴く側として私なら気をつけるところは、
感情論に流されることなく素のまま聴くこと。
感情論に流されてしまっていると、
次男くんへの同情や旦那さんを誹謗中傷したくなる気持ちがふつふつと湧いてきてしまいます。
そうなると、悩みの原因的な話になったときに発達障害というキーワードが問題かのように話が進んでいきます。
けれど、本当に子どもの発達障害が悩み(問題)の原因なのでしょうか?
原因論的にいうと、問題(結果)には必ずそうなった原因がある。
そう考えた方が単純明快。
答えらしき原因という名の犯人にたどり着いたときには、推理の謎が解けた感じでスッキリしますから。
ところが、自然界で起きている出来事は、必ずしも理想(理論)通りの展開にはなりません。
それはわたしたち人間の日常生活においても例外ではないです。
たとえば、先ほどの悩みの内容についても、表面的にいうと旦那さんはお子さんが発達障害であることに反応しているかのように思えます。
しかし、もしかしたら、旦那さんは仕事で人間関係のトラブル(ストレス)があって、そのうっぷんを晴らすためのはけ口になっているのかもしれません。
それとも、長年の通勤によるストレスが溜まってしまっていたかもしれませんし、周りの目を普段から極端に気にする性分だったかもしれません。
ただ、自分が今の行動を起こしているわかりやすい原因(子どもが発達障害)を作った方が、ある意味大義名分が立ちます。
なぜなら、自分ではないことが原因であれば、責任は自分自身にはないのだから。
発達障害の子=問題児
という方程式をつくることで成り立つ理屈。
発達障害を支援しているサイトの内容を拝見しても、言葉的には問題児ではない的な話が書いてありますが、、、
そもそも発達障害という判断があいまいな認定を、子どもにしている時点で――っと、これ以上言うまでもないですね。
問題児を更生させるという名の、大人の言うことを素直に聞く人間をつくりだす教育の現実。
それでいて、社会に出たら突然意見をはっきり言うことや、自分で考えることが大事とか言われる始末。
わたしたち大人たちでさえその矛盾に混乱してしまう日常生活の中で、そんなメダパニ状態の大人から一方的に指示される子どもたちはもっと大混乱ですよ。
つまり、そもそも発達障害という基準は、
学校教育における大人の言うこと聞ける度
ということ。
なので、(あくまで)子育て中のわたしからすると、子どもたちの何が問題なのかがさっぱりわかりません。
ぶっちゃけ発達障害という問題を掲げて解決したければ、そもそも発達障害という一方的な認定はなくすのが一番てっとり早い。
ただし、周りの子と比べて優劣を競い合う学校教育においては、評価基準を変えないと――と何かを変えなければ思考についなりがち。
もし――
他人を変えることができない。
変えることができるのは自分だけ。
ということをベースに考えるのであれば、子どもを変えようとしたり、学校教育や制度を変えようとしたりしても無駄無駄。
単なる原因(犯人)捜しという迷宮にハマってぬけだせなくなります。
なにせ推理アニメのように
「犯人はこの中にいる」
というわかりやすい構図(局所的)は、日常生活においてはまずあり得ないから。
誤認逮捕をして、一件落着化のように見えても、それはまた別の歪みを生むだけ。
根本的には何も解決にはならないし、発達障害の現場で働いている人の話を聞く限りでは逆効果になっているような話も少なくないようで。。。
なんか書きたいことをただ書いていたら、それこそ泥沼にハマりそうだから今日のところはこの辺でw
冒頭にも書いた通り、
特定の誰かや何かをワルモノにするかぎりでは、いつまで経っても根本的な解決には繋がらないんです。
犯人捜しに迷走しちゃいますからね。
だからこそ、わたし自身はまずは自分で考えることをより一層大事にしたいと、改めて感じた一日でした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!