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続いてお勧めするのは、小説『海の翼』です!
この小説を知ったきっかけは、『手紙屋』や『「また、必ず会おう」と誰もが言った。』の作者である喜多川泰さんが推薦図書として紹介してくれたこと。
どんな話か調べずに即購入して読みましたが、、、
日本とある国がなぜ友好関係が築かれたのか、その理由がわかる話で、とても感動しました!
『海の翼』の時代は?
メインとなる話は、明治時代初期の話になります。
みなさんはエルトゥールル号事件というのをご存知でしょうか?
(ぼくが学生の頃は教科書に全く記載されていませんでしたが、ぼくが最近買った教科書では載ってました)
この事件の詳細については、ウィキペディアを引用します。
エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年(明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号 (Ertuğrul Fırkateyni) が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件。
ウィキペディア(エルトゥールル号事件)
この串本という場所は和歌山県最南端に位置し、本州においても最南端にあります。

夏から秋にかけて台風がよく通り、年間降水量は約2,600mmなので、東京の約1,500mmと比べて約1.7倍。
また、実際に現地にも行ったことがあるのですが、雨は降ってなくても海はけっこう荒れていて、海に放り出されたらひとたまりもない感じ。
そんな場所の沖合いで台風に遭って難破してしまったら、本当に助からないと思うくらい。
結果的に、トルコの親日に繋がった島民の行動
大島の400戸の島民たちは気の毒な異国の遭難者を助けようと献身的にはたらきました。男たちは沖に船を出して遭難者を探し、冷たくなりかけた負傷者には裸になって自分の体温で体をあたため、命の灯を蘇らせました。女たちは負傷者の介護や食事の世話に不眠不休で奔走しました。島民は非常食用の鶏、持てるもののすべてを提供しました。
検定不合格 新しい歴史教科書
小説には、島民たちは台風の中命綱を体に巻きつけて、身一つで大荒れの中海に飛び込み、自分たちよりもはるかに体格の大きいトルコ人たちを救出した様子が描かれています。
しかも、当時の大島はけっして裕福なエリアではなく、食べるものも十分にあるわけではなかったけれど、非常食用まで取り出して、懸命に救助活動を。
助からない命は多かったけれど、それでも持ち直したトルコ人が故郷に帰ることができるぐらい回復できたのは、島民のおかげといっても過言ではなかったでしょう。
それでも、誰からの指示があったわけでなく、自主的に救助活動した島民たち。
明治天皇から救助費用を申し出るように言われたものの、「当たり前のことをしただけ」と言ってきっぱり断ったようです。
その後の展開はネタバレが多分に含まれるのでここでは割愛しますが、そういった誠心誠意の行動が結果的にトルコとの友好関係を築くきっかけになったことは想像に難しくないです。
教育の素晴らしさと恐ろしさ
このエルトゥールル号事件と、日露戦争でトルコの宿敵であるロシアに勝った日本に対して、恩を感じてくださっていた。
そして、そのことを次の世代、次の世代へと語り継いでいた。
このことがきっかけで、1985年イラン・イラク戦争の時にイラクから脱出できずにいた日本人約200名に対して、日本救援機を唯一出してくれたのがトルコでした。
しかし、日本ではトルコとの関係を語り継いでいなかったため、イラクで助けられた人たちはトルコの人たちから「エルトゥールル号の恩返し」と言われてもピンっと来ませんでした。
意図的に伝えなかったのか、特に必要はない情報として省いたのかはわかりませんが、この話を知った時教育ってとても大事だと実感。
ぼくがこの本と出会う前のトルコに対する認識は、「親日だよなぁ」「なんで何だろうなぁ」と思うだけで、それ以上の詮索はしていなくて。
でも、この本を読んでぼくは居ても立っても居られなくなり、この話に共感してくれた友人2人とぼくの3人で、実際に10年前現地に足を運んだことを思い出します。
実は、このトルコのような話は他の国々にもあります。
例えば、台湾に巨大ダムを建設した八田與一さんの話もその一例です。
今の海外支援のような、とりあえずお金を配って支援した感じの体裁をとる——恩を売るような行為ではなく、互いのことを思い合えるような関係を、私たちの日常生活で築いていくためのヒント。
その存在に気付くきっかけが『海の翼』にはあると、ぼくはそう考えています(^^)/
ちなみに、『海の翼』は実写映画化もされているので、活字が苦手な方は映像で観るのもお勧めです!