自分を活かして 相手を活かして 今を活かす

暗殺教室の漫画版がフロリダ公立校で撤廃されている件〜木を見て森を見ずとはまさにこのこと〜

こんにちは、おかちゃんせんせいです!

前日暗殺教室について調べていたら、たまたま目に留まった記事がありました。

今回はその記事を読んで感じたことについて書いていきたいと思います。

内容としては
米フロリダ州の公立学校で、保守系団体に「不適切」と指摘された図書の撤去が相次いでいる。
その中の1つに、日本の人気漫画「暗殺教室」がある。
という話題。

堂々と責任転嫁する姿勢が・・・

原文を読んでいないので詳細なことは分かりませんが、、、
要は——
「今アメリカの学校で相次いで起きている銃乱射事件、それを漫画が誘発している恐れがあるから撤廃しろ!」
とNPO団体が主張している。

そもそもこの時点で無茶苦茶な論理であることは明白。

もし上記の論理が成り立つのであれば、
アメリカだけではなく、他の国でも同じような騒動が起きていてもおかしくないはず。

そして、そもそも一番流通している日本ではそんな事件はまったく起きていない。

それに、暗殺教室が連載されてからすでに8年近く経っているのに、なぜこのタイミングなのか?

などなど、突っ込みたい内容は満載。

そんなことを言ったら、銃を使った映画や動画はアメリカでは当たり前に放映されまくっているし、銃を日本よりは入手しやすい環境にあるのだから、そもそものことを何とかしようと考えず、他の要因をでっち上げてはどうなのだろうか。

これぞ、責任転嫁の見本だと感じた。

「木を見て森を見ず」な安直な意見なのかどうかは自分で判断する必要がある

こういった事例って日常生活で当たり前にあるので、安直な意見・発想だということに気付けないくらい麻痺している人が急増しているのかもしれない。

例えば最近身近な例で言うと、
みんなワクチンを接種している→だから、自分も打つ
周りがマスクしているし、テレビでも推奨している→だから、自分もマスクをする
など。

特にワクチンについては、みんな認識がなさ過ぎるのかもしれない。

ある意味ワクチンは、
毒をもって毒を制す
ということがベースになっている。

あるウイルス(仮に、A)に感染しないように、
Aを培養して、それを体内に入れることで抗体を作らせ、免疫を作ることで感染症対策をする。
というのがワクチン接種の意義になっている。

しかし、この論理が成り立つためには、下記3つの条件を最低限満たす必要がある。

  • そもそもAを特定して、特徴を解明できていること
  • Aを血液から注入することで抗体が必ずできること
  • Aが変異していかないこと

何が言いたいのかというと、
ワクチン接種をするには最低限上記の条件を満たしているのかどうかは、接種する前に自分たちで調べる必要がある
ということ。

もし仮にAが特定できていて、接種することで抗体ができるのであれば、そもそもテレビで言っているような感染者数は激減するはず。
定着するためには何回も打たなくてはならないとか言って、何回も打つように推奨しているようですが——そもそもそんなに何回も打ったら定着するというような事前の臨床実験はしていない。
(ある意味今やっている・・・)

それはなぜかと言う話はこれまでの経緯を整理すれば自ずと見えてくるので、あえてここでは割愛。

相手が話している内容を一部だけ捉えるのではなく、それが意味するところや相手の意図を汲み取る。
木を見て森を見ずな発言には必ず前後関係があやふやになっているので、それは自分で気付き、その上でどうするかを判断することが大事だと私は考えています。

【子育て】赤ちゃんが産まれる前からしっかり考えておきたいこと〜ワクチン編〜 みなさんは健康体でいるために、日常生活で意識していることはありますか?

決まりきったボケにはツッコミすら億劫に

他にもこれまであったことで「木を見て森を見ず」なマスメディアを通した発言は数えきれないほどある。
限りなくありすぎてツッコミを入れるよりも、呆れの感情しか湧いてこなくなった今日この頃。

その中でも、今回のように自分が好きなものに対する理不尽な対応にはついつい反応してしまう。

例えば、尾崎豊の歌に関しても理不尽なマスコミや一部の人間による発言・意見は目に余るものがある。

歌に触発されてやったとしたら、その人間は冒頭のNPO団体と同様で責任転嫁をしているだけでしかない。

もし仮に歌に触発されるのであれは、一時的なことではなく、今でも盗んだバイクで走り出したり、窓ガラスを割ったりする若者で溢れていないと辻褄が合わない。

けれど、私が10代の頃にはすでに荒れてる学校は過去の話になっていた。

ということは問題は歌ではなく、当時の社会の風潮だったり、マスコミによる記事の取り上げ方だったりに左右されているのではないでしょうか。

少なくとも、尾崎豊以降のアーティストが作曲した歌詞の中には、全然「15の夜」や「卒業」よりも過激な歌詞は当たり前にあるのだから。

相手(作品)が伝えたいと思ったメッセージは何だったのか?

尾崎豊や暗殺教室は思い入れが強すぎて、書きたいと思ったことの半分も書けていない。。。
けれど、今回はピックアップした記事を通して改めて実感したことについてまとめる形で終えたいと思う。

結局なぜ今回この記事を書きたいと思ったのかというと、
作品には必ず作者が伝えたいと思ったメッセージがある
ということを各々が認識しておくがとっても大切だと感じたから。

「暗殺教室」を例で言うと、
「バトルロワイアル」のような単なる殺し合いの漫画でない。

なぜ「暗殺」教室なのか?
と言うそもそものところが重要。

【工夫の極意】暗殺教室から学ぶシリーズ16−1「微差力」

普通に言葉の意味だけ拾うと、「暗殺」という言葉と「教室」という言葉を結びつかないと思う。
おそらくNPO団体の人たちは「暗殺」という言葉や、部分的なシーンだけをただ読んでいただけだから、犯罪を助長するような漫画だと判断したのかもしれない。

けれど、最後まで「暗殺」というフレーズのだけではなく、「暗殺教室」というをしっかり見ていれば、作者は人殺しを助長するような意図は一切感じられないはず。

また、「15の夜」にしても、「盗んだバイクで走り出す」というフレーズがインパクトが強いかもしれないけれど、歌全体をしっかり聞いてみると、重要な部分はそこではないことは明らか。

「卒業」にしたって、「窓ガラス壊して回った」というフレーズだけが取り上げられるけれど、キーポイントは最後の締めの問いかけ部分にある。

卒業して一体何わかるというのか
思い出のほかに何が残るというのか

人は誰も縛られたか弱き子羊ならば
先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか

俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか
これからは何が俺を縛り付けるのだろう

あと何度自分自身卒業すれば
本当の自分に辿り着けるだろう

仕組まれた自由に誰も気付かずに
足掻いた日々も終わる

この支配からの 卒業

戦いからの 卒業

卒業 /尾崎豊
音楽に興味を持つようになったきっかけ『尾崎豊』 その3

最後にこの話を取り出したらまた書きたくなる衝動に駆られるけれど、、、

古事記にしても、ただ書かれている内容だけで判断するのであれば、「神様っていってもただの人間じゃん」としか感じられないと思う。
なにせ夫婦間、兄弟の殺し合いのいざこざは当たり前な感じで物語が描かれているから。
けれど、という観点で物語全体を捉えると全く異なる物語になる。

上辺だけの解釈で責任逃れや注目を集めたいためだけの行動をするのは、本当に自重してほしい。

というのは本心だけれど、解釈は読み手や聞き手の自由。
だからこそ、私たち大人一人一人が、自分の行動や言動には責任を持つことが大事だと私は考えています。

そんなふうに考えている人はごく少数なのかもしれないけれど、同じようなことを大事にしている人とこれから先は付き合っていきたい。


長々と今自分が感じていることを書きましたが、
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA