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【妄想小説】アヤメの花 エピローグside 沙耶(前編)
「沙耶はカラオケ行かないの?」
「今日は遠慮しとく。明日、朝早いからさ」
中学時代の同期との飲み会から一夜明けた。
いつもの沙耶だったら、飲んだあとお決まりのようにカラオケに行っていた。
でも昨夜は、冬美のあの話を聞いてから、胸の奥がざわめきだして、そんな気分じゃなかった。
明日の朝なんて予定はない。行くところもない。
あるとするならば……なんだろう、自分と会わなきゃならない気が沙耶はした。
机の2段目の引き出しから、1冊のファイルを取り出す。 それは以前、沙耶が描いたマンガだった。
パラパラめくり続けている指が、あるページで止まった。 ネームは描かれているが、そこから先は未完成のまま——
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小さな頃から絵を描くことがとにかく好きだった。 きっかけは単純だったと思う。
私が絵を描くと、みんながうまい、上手とほめてくれる。 みんなが私の絵をみて笑顔になる。それがとても嬉しかった。
それがいつからだろ、だんだん絵を描くことが楽しくないと思うようになっていた。 なんでだっけ……
「いまこそ、なんじゃない?」
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「ハッ!?」
男性の声がして、目が覚めた。 どうやら夢らしい。
「もしかして、おかちゃんせんせい?」
起き上がると、ベットの上や床には手からこぼれた描きかけのマンガが散乱していた。
「やっぱ捨てられないってことは描きたいってことなんだよね。きっと……」
やる気がないから描けないと思い込んでいたけれど、それって描かなくていい理由を自分につくっているのかもしれないと、沙耶は思った。
「続き描いてみようかな——っとその前に、冬美にメールしよ」
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冬美、おはよう。 冬美の呪いでしょうか?笑 今朝、夢におかちゃんせんせいが出てきましたよ! おかちゃんせんせいに背中を押され、今日久々に絵を描こうと思ってます。 冬美もすっかり、ふゆちゃんせんせいだね(笑) じゃ、またね~ ありがとう!
△▲△▲△▲△▲△▲
別に何か状況が変わったわけではないけれど、何かが変わっていく感じが沙耶はしたのであった。
◇
新堂沙耶、大学3年の女子大生。
両親と兄夫婦と共に実家で暮らしている。
同級生はみんな就職活動をしているけれど、沙耶は何もしていない。
久しぶりに冬美が参加した仲良し4人の集まりから、早1ヶ月経っている。
あれから同じ大学に通っている朱音とも会っていないが、今は誰とも会いたいようで、会いたくない——そんな矛盾した気持ちが、沙耶の中では渦巻いていた。
「沙耶、今日カラオケ行こうよ!」
「ごめーん! 今日は家の手伝いがあるんだ」
「そっかぁ。そういえば、ご両親の調子が悪いんだっけ?」
「うん……そうなんだ」
「じゃあ、また誘うね!」
そういうと声を掛けてくれた同級生・和美は、楽しそうな足取りで校門の方へと走っていった。
「……帰ろう」
そんな同級生の背中を見送り、沙耶は憂鬱な気分を引きずりながら歩き始める。
沙耶の実家は老舗の和菓子屋・一心堂。父は3代目で、沙耶の兄は4代目となる。
父は代を譲ったものの、ずっと兄と一緒に和菓子を作り続けていた。
しかし、先ほど同級生にも話したように、沙耶の父と母はある出来事がきっかけに体調を崩して、今も調子があまり良くない。
その分、兄夫婦が二人で切り盛りしているが、義姉が子育てで忙しいのもあって、沙耶は大学の講義が終わったら自主的に手伝っている。
「自主的って、都合の良い言葉よね……」
沙耶は自分の現状が本当にこのままでいいのか、最近ずっと迷っていた。
同級生はみんな就職活動をしているけれど、自分は就職活動はしていない。
実家の和菓子屋を手伝う、という理由で。 その気持ちは、小学生の頃からの仲良しの胡桃と会う度に強くなっていた。
胡桃は高校卒業後、すぐに社会人として働きながら、シングルマザーの胡桃の母親を金銭的にサポートしている。
沙耶はそれに比べて「自分は両親や兄夫婦に養ってもらっているだけだ」と思っており、その想いが沙耶にますます劣等感を抱かせていたのである。
「家に……帰りたくないなぁ」
それ以上に、沙耶の足取りが重い理由は別にあった。
先週末の出来事である——
◆
「沙耶、大事な話がある」
「……何?」
「お前のこれからについてだが……」
晩ご飯を家族で食べたのを見計らって、沙耶の父親が真剣な表情でそう話を切り出してきた。
この場には、義姉の雫さんとまだ生まれたばかりの赤ちゃんだけがいない。
正直「ついに来たか」と沙耶は思った。
なぜなら、お店が昨年まで続いた新型コロナ騒動の影響で売り上げが落ち込み、経営困難な状況が続いていることを沙耶は兄夫婦から聞いていたのである。
そんな状況で、店番しかできない自分は荷物でしかないと沙耶自身は思っている。
「別の仕事を、探す気はないか?」
「……(やっぱり)それは今更よ。卒業したら経理を手伝ってほしいと言ってきたのは、お父さんとお母さんなのよ」
少しでも落ち着いて話そうとするが、沙耶は今にも気持ちが爆発しそうだった。
「あのね、沙耶。お父さんはね、あなたが部屋で——」
「見たの!? まさか、あれを勝手に!」
「沙耶、落ち着け!」
「お兄ちゃん、お父さん達の味方するの!? 落ち着いてられるわけないじゃん! 私は……お父さんたちが大学卒業したら経理を手伝ってほしいって言われて、それで経済学部を選んで。それに、私の夢だって諦めたのに——それなのに!」
「沙耶!」
一気に怒り心頭になった沙耶は、父親の制止の声を振り切って、自室に駆け込んだのであった。
◆
結局あれから1週間、沙耶は両親と兄から逃げるように生活していた。
なので、同級生にはお店の手伝いと言っていたが、あの一件から実は手伝いはサボっている。
けれど、今日は義姉からメールで「どうしても今日は店番できないから手伝ってほしい」と連絡があり、いい加減腹を括って店番を手伝うことにした。
なぜなら、沙耶にとって義姉は、新堂家の中では唯一の沙耶の理解者であり、よく相談に乗ってもらっていたりする恩もある。
くだくだとお店に向かっていると、肉眼でお店が見える通りに出たところで、お店から一台の車が出ていくところが見えた。
「あれは……胡桃の車?」
胡桃のらしき車は、沙耶とは逆方向に行ってしまった。
「ただいま」
「……お帰り」
そっけなくお店の暖簾をくぐると、兄が店番をしていた。
お互い目を合わせることなく、沙耶は店番の準備のため自室に向かう。
「(兄が留守番をしているということは——そういうことなのかな)」
今までなら兄が店番をする姿を見たことはない。
なぜなら、コロナ騒動がある前までは終日行列ができるくらい繁盛していた時は、兄はずっと店の奥で和菓子を作り続けていた。
作っても作ってもすぐに売れて、閉店時間前に売れ切れることがほとんどだった。
それが、コロナ騒動以降、客足は一気に遠のき、売り上げは半減したという話である。
「沙耶、胡桃ちゃんが来てたぞ」
「そう……(やっぱり胡桃だったんだ)」
店内に戻ってくると、兄から話しかけてきた。
けれど、私がそっけなく返答すると、そのまましばらくお互い無言の時間が続いた。
「沙耶、今日はもう上がっていいぞ。客ももう来ないだろうから、俺一人で十分だ」
「……わかったわ」
兄が何とか話すきっかけを作ろうとしているのは感じたが、頑なになっている沙耶は再び目を合わすことなく自室へ戻ることにした。
自室のある二階に上がると、部屋の前には義姉が立っていた。
「沙耶ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま! 義姉さん、今日は予定があるはずじゃあ……」
「そのはずだったんだけど、お義母様に代わってもらったの。あなたとお話がしたくてね」
「私と?」
「えぇ。一緒に中に入ってもいいかしら?」
「あ、はい! どうぞ」
特に断る理由もなく、沙耶は義姉を部屋に招き入れた。
「やっぱり沙耶ちゃんの部屋は綺麗ね。お兄さんとは大違い」
「……お兄ちゃんはお菓子以外には基本無頓着ですから」
「ふふふ、そうね」
沙耶の返答にどこか嬉しそうな義姉。
そのことが自室にいるはずなのに、なぜか沙耶は居心地の悪さを感じた。
「それで……お話って何でしょうか?」
居心地の悪さに耐えられなくなり、沙耶は本題に入るよう義姉に促した。
「先週のお義父さんたちのこと、少しは落ち着いたのかなっと思って」
「……はい。ごめんなさい、私がすぐにカッとなってしまって、雰囲気を悪くしてしまいまして」
「いいのよ、それは。家族に気持ちを伝えられない方が、なんか寂しいしね」
義姉は懐かしそうに過去を思い出している表情をしている。
義姉の雫には兄弟姉妹はおらず、高校生の時に両親を亡くしている。
沙耶の兄と同級生であり、以前から家族ぐるみの付き合いがあったこともあり、兄と雫さんは高校卒業を待って結婚した。
そう言った経緯もあって、沙耶にとっては小さい頃から雫のことは姉のように慕っていたから、兄と結婚しても何も変わった気がしなかったが——
「(そっか、義姉さんには伝えることのできる両親はいないんだった……)その——」
「私のことは今はいいのよ。ただ、沙耶ちゃんは一つ勘違いしていることがあるから、そのことは伝えておこうと思ってね。実は、あの日お義父様が本当に伝えたかったのは、『あなたには好きな道を選んでほしい』ということだったのよ」
「え!? だって、経理の仕事を手伝ってほしいって……」
「それはね、あなたにそう伝えてしまったことを後悔していたのよ。お兄さんの健さんには後継ぎとして消防士の夢を諦めさせて、妹のあなたには漫画家なる夢を諦めさせてしまったことに」
「そんな……今更ですよ」 「えぇ、今更ね。けれど、お義父様はたまたま見てしまったのよ。1ヶ月くらい前かしら。あなたを呼びに部屋に行ったとき、たまたま部屋が開いていて、中にイラストが部屋中に散らばっているのを」
「あ!?」
それには、沙耶は思い当たる節がある。
冬美の話を聴いた次の日に、一日中イラストを描いていたとき、部屋を開けっぱなしにして外出した時間が確かにあったことを思い出した。
「漫画家になる夢はとうの昔に諦めてたと思っていたお義父様は、あなたが今でもまだイラストを描いていることが相当ショックだったそうよ。『沙耶には悪いことした』って、それ以来ずっと言ってるのよ」
「……」
別にイラストを描き続けたわけではなくて、あの日からたまたま描き続けるようになっただけだった。
そのたまたま描くようになった日に、たまたま父親が目撃して、職人気質な父親がそんなにショックを受けているとは沙耶は夢にも思わなかったのである。
「それでね、私と健さんはお義父様とお義母様から相談を受けていたの。『沙耶がお店を手伝えなくなってもいいか?』と」
「……兄は何と?」
「『問題ない。妹の道は、妹が自分で決めてほしい』と、即答していたわ」
「!? わ、わたし……そんなこと——」
先ほどの兄とのやりとりが、沙耶の脳裏に瞬時に思い返される。
沙耶は目を合わそうとしなかったが、兄は何度も私に話しかけようと目線を向けていたことを。 そのときの兄の表情は怒っているわけではなく、沙耶のことを気に掛けてくれている感じだったことを。
それらを沙耶は全部そっけなく返してしまったのである。
その事実に気付いた瞬間涙が止まらなくなった沙耶を、雫は優しく抱擁する。
「健さんも不器用だから許してあげてね。でも、みんなあなたのことが大切に想ってるわ。それはあなたも同じのはずよね?」
「グズッ。は、はい」
「じゃあ、今からお義父様とお義母様の寝室に行きましょう。あなたに見せたいものがあるわ。大丈夫、お二人の許可は頂いているから」
そう言った雫の後を沙耶はついていく。
両親の部屋に入るのはかなり久しぶりだった。
少なくとも、沙耶の記憶では小学生に入ってからは入っていない気がしている。
雫は部屋に入り、クローゼットにある鏡の扉を開けると——
「こ、これは!?」
「お二人の宝物——だそうよ」
扉を開けると、その内側の両サイドには沙耶が小学生の頃に描いた父と母の似顔絵がそれぞれ貼ってあったである。
「な、なんで——」
「部屋に堂々と飾るのはお義父様が恥ずかしかったそうでね。けれど、身支度するときに使う鏡に貼っておけば、毎日見れるからって。とても嬉しそうに話していたわよ」
「……お父さん、お母さん」
沙耶はあのときのやりとりで、父と母から酷い仕打ちを受けたと勘違いしたことにようやく気が付いた。
今までこれらの絵を描いたことすら沙耶は忘れていたのに、そこまで両親が大切に扱ってくれていたとは思いもやらなかったのであった。